小澤征爾【経歴と名盤、youtube動画】

2020年9月21日

小澤征爾(1935-)はボストン交響楽団の音楽監督として長年活躍した後、日本人として初めてウィーン国立歌劇場音楽監督を務めた日本を代表する世界的な指揮者です。

生い立ち

小澤征爾は1935年、旧満州国奉天(現中国瀋陽市)で歯科医師を務める父の元に三男として生まれました。

満州での国民教化組織である満州国協和会の創設メンバーでもあった父小澤開作によって、同志の日本陸軍軍人、板垣征四郎と石原莞爾の両名から一字ずつとって征爾と名付けられました。

小学生の頃からピアノをはじめた小澤征爾は1951年、成城学園高校に進学し、斎藤秀雄(1902-1974)らの設立した「子供のための音楽教室」で学びますが、本格的に指揮を学ぶために翌1952年に新設されたばかりの桐朋女子高校音楽科へ第1期生として入学し(音楽科は男女共学)、斎藤秀雄の下で学びます。

1955年、同じく齋藤秀雄が教授を務める桐朋学園短期大学(現桐朋学園大学)へ進学します。

指揮者デビュー

大学卒業後、群馬交響楽団などで指揮活動をはじめた小澤征爾でしたが、1959年2月1日、知人たちを介して支援してもらった資金と富士重工から借りたスクーターを貨物船に積んで単身渡仏。

当時、スクーターを提供してくれた富士重工からの条件は「1.日本国籍を明示すること。2.音楽家であることを示すこと。3.事故をおこさないこと。」の3点だったそうで、このような経緯から日の丸のついたスクーターにギターを担ぐと言う奇妙ないでたちで3月23日にフランスのマルセイユに着いた小澤征爾はスクーターに乗ってパリを目指します。

パリに着いた小澤征爾はスイスに近い美しい街ブザンソンで指揮者コンクールが開催されることを知ります。

ユニークなのはこの指揮者コンクールを受けるために渡仏した訳ではなく、4月8日にパリに着いてから6月にこのコンクールがあることを知るまでは行き当たりばったりと言ってもよい生活を送っていることです。

しかし、結局は同年開催された第9回ブザンソン国際コンクールで第1位を受賞し、世界へと羽ばたくための足掛かりを得ます。

翌1960年にはタングルウッド音楽祭での試験にパスし、当時ボストン交響楽団の指揮者であったシャルル・ミュンシュ(1891-1968)に学ぶ機会を得ます。

ミュンシュはブザンソン国際コンクールの時の審査員の一人で、その時に開かれたコンサートで聴いたベルリオーズ「幻想交響曲」に感銘を受け、最後のパーティで弟子入りを志願したものの「私は弟子を取らないが、来年の夏にタングルウッドに来るなら教えてもいい」と言葉を掛けられたのが実を結んだものでした。

音楽祭の最後にはクーセヴィツキー大賞も受賞します。

同年9月にアメリカからヨーロッパに戻った小澤征爾は今度はカラヤンの下で学ぶためのコンクールにもパスし、翌10月からはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の芸術監督であったヘルベルト・フォン・カラヤン(1908-1989)の下で学ぶようになります。

さらに1961年4月にはニューヨーク・フィルハーモニックの副指揮者に就任し、音楽監督であったレナード・バーンスタイン(1918-1990)にも師事します。

副指揮者の契約期間は1年半で、カラヤンの下で学び始めてから間もない頃だったため、このことをカラヤンに相談したところ「セイジ、お前はおれの弟子だ。経験のためにニューヨークに行って、終わったらまた来なさい。」と温かく送り出してくれたと著書の中で語っています。

カラヤンとの師弟関係が良好であったことをうかがわせるエピソードですが、バーンスタインにも可愛がられていたようで3人いる副指揮者の内、小澤征爾だけがニューヨーク・フィルのコンサートのアンコールでストラヴィンスキー「火の鳥」の後半部分を何度か指揮させてもらったそうです。

バーンスタインの下で学んでいた当時の動画がyoutubeにアップされていますので、少し見てみたいと思います。

モーツァルト:「フィガロの結婚」序曲より

小澤征爾指揮:ニューヨーク・フィルハーモニック
「ヤング・ピープルズ・コンサート」より

こうしてミュンシュに加え、カラヤンとバーンスタインと言う20世紀を代表する2人の巨匠の下で学ぶ機会を得た小澤征爾は本格的に指揮者としてのキャリアをスタートさせることになります。

この当時の経緯は小澤征爾の著書「ボクの音楽武者修行」「おわらない音楽-私の履歴書」に詳しく記されています。

N響事件

ヨーロッパとアメリカで指揮者としてのキャリアをスタートさせた小澤征爾は日本のNHK交響楽団でも指揮者としての活動を始めます。

1962年の秋に行われた東南アジアでの公演でオーケストラとの間に感情的な軋轢が生じ、11月16日にN響の演奏委員会が「今後小澤氏の指揮する演奏会、録音演奏には一切協力しない」と表明、演奏会をボイコットすると言う騒動が勃発します。

この騒動は小澤征爾側もNHKを契約不履行と名誉毀損で訴えることになり、また、浅利慶太、石原慎太郎、井上靖、大江健三郎、武満徹、黛敏郎、三島由紀夫などの文化人を中心とした「小澤征爾の音楽を聴く会」が結成され、NHKとN響に質問書を提出するなど社会問題にまで発展しました。

翌1963年1月15日、日比谷公会堂で行われた「小澤征爾の音楽を聴く会」で日本フィルを指揮、黛敏郎らの仲介でNHK側とは一応の和解をした小澤征爾でしたが、「もう日本で音楽をするのはやめよう」と思うほどショックを受けた小澤征爾は以後、活動の中心を海外に移していくことになります。

騒動の原因に関しては小澤側とNHK側では主張が異なるので何とも言えませんが、NHK側によれば「度重なる遅刻と勉強不足からくるミスなどの自己管理の問題」などを主張しているのに対し、小澤征爾は後のドキュメンタリー番組で「僕の指揮者としてのスタイルはアメリカ的で、いちいち団員に指図するやり方だった。でも日本での指揮者に対する概念はそうではない。黙って全体を把握するのが指揮者だ。この違いに加えて僕は若造だった」と音楽に対するアプローチの仕方の違いが原因だと述べていますし、著書の中でも自身の経験不足と演奏会でのミスについても触れています。

いずれにしても批判の急先鋒となった批評家たちの言葉からは多分に感情的な行き違いがあったことが強く感じられます。

小澤征爾が再びNHK交響楽団の指揮台に立つのは当時を知る楽員たちの多くが既に退団した32年後の1995年1月23日のことでした。

このコンサートは、病気やケガで演奏活動が出来ないオーケストラ楽員のための慈善演奏会で、小澤が「スラヴァ」の愛称で呼ぶ盟友ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ(1927-2007)の説得によるものでした。

アメリカでの活躍

N響とのトラブルの後、アメリカに戻った小澤征爾でしたが、ニューヨーク・フィルとの契約期間はもう既に終了していて、仕事もない状況でした。

そんな小澤征爾に千載一遇のチャンスが到来します。

1963年7月、シカゴのラヴィニア音楽祭シカゴ交響楽団を指揮する予定だったジョルジュ・プレートル(1924-2017)が体調不良のため指揮台に立てず、その代役の依頼が来たのでした。

急なオファーであったにもかかわらず、この大役を見事に成功させ、このことが評価され翌1964年6月にラヴィニア音楽祭の音楽監督に就任することになります。

1965年9月、30歳を迎えた小澤征爾はカナダのトロント交響楽団の音楽監督に就任します。

これには「ニューヨークにいるべきだ。」とするバーンスタインが難色を示したようで、マネージャーと2人で説得して渋々了承を得たそうです。

徐々に指揮者としての知名度を上げていく小澤征爾と師バーンスタインとの変わらぬ関係性がうかがえるエピソードですが、もう1人の師カラヤンも小澤のことを気にかけてくれていたようで、オペラを学ぶことの重要性を説いたカラヤンは1968年のザルツブルク音楽祭でモーツァルトのオペラ「ドン・ジョヴァンニ」のアシスタントに指名し、翌1969年には同じくモーツァルトの「コジ・ファン・トゥッテ」でオペラデビューすることになります。

1970年、タングルウッド音楽祭の音楽監督とサンフランシスコ交響楽団の音楽監督の就任します。

こうしてN響のボイコット事件から8年、アメリカでのキャリアを順調に築いて行くことになりました。

小澤征爾とボストン交響楽団

1973年、ボストン交響楽団の音楽監督に就任します。

かつて弟子入りを志願したシャルル・ミュンシュが率い、アメリカの5大オーケストラに数えられるメジャーオーケストラのポストです。

サンフランシスコ交響楽団の音楽監督の契約期間中であった小澤征爾は無茶と承知しながらも両方のオーケストラの音楽監督を掛け持ちし、1976年にサンフランシスコ交響楽団との契約が終了するまでボストンとサンフランシスコを往復する日が続きます。

ボストン交響楽団との関係はその後2002年に辞任するまで29年に及び、1994年には夏の本拠地タングルウッドにソニーのCEOであった大賀典雄やNECの援助で「セイジ・オザワ・ホール」が建てられます。

ボストン交響楽団の音楽監督を務めたこの期間は、ボストン交響楽団と多くの録音を残すとともに、ベルリン・フィルウィーン・フィルをはじめとするヨーロッパのメジャー・オーケストラへの客演指揮も多い時期で、並行して日本では1972年に日本フィルが分裂した後に兄弟子の山本直純(1932-2002)らと新しく創設した新日本フィルハーモニー交響楽団にも出演するなど目覚ましい活躍をした時期でもありました。

リヒャルト・シュトラウス:英雄の生涯より

小澤征爾指揮:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

師のバーンスタインがそうであったように、メディアにも気軽に出演し、クラシック音楽の裾野を広げるのにも貢献しました。

山本直純の企画の下、TBSで11年の間続いた音楽番組「オーケストラがやって来た」では演奏を務めた新日本フィルハーモニー交響楽団と共に出演したり、アメリカでも子供向け教育番組として有名な「セサミストリート」にも出演しています。

セサミストリート』より

2002年4月、音楽監督として最後の定期演奏会に小澤が選んだのはマーラーの最後の交響曲第9番でした。

小澤征爾とサイトウ・キネン・オーケストラ

1974年9月18日、恩師齋藤秀雄が72歳で亡くなります。

1984年9月、恩師の没後10年の節目に小澤と兄弟弟子の秋山和慶(1941-)の呼びかけで世界中から齋藤の門下生が集まり、「齋藤秀雄メモリアルコンサート」が東京と大阪で開催されます。

この時に臨時に編成されたオーケストラが母体となり1987年、「サイトウ・キネン・オーケストラ」として初めてヨーロッパツアーを行います。

このツアーが好評を博し、1989年から1991年にかけてヨーロッパとアメリカへのコンサートツアーを行います。

1990年には「サイトウ・キネン・オーケストラ」のメンバーを中核として同年オープンした水戸芸術館専属の水戸室内管弦楽団も発足し、音楽顧問に就任、2013年からは総監督として運営にあたっています。

ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第2番より

小澤征爾指揮:水戸室内管弦楽団
ピアノ:マルタ・アルゲリッチ

【収録曲】
1. ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第2番変ロ長調 Op.19
2. モーツァルト:ディヴェルティメント ニ長調 K.136~第1楽章
3. グリーグ:組曲『ホルベアの時代から』(ホルベルク組曲) Op.40


小澤征爾指揮:水戸室内管弦楽団
ピアノ:マルタ・アルゲリッチ

録音:水戸室内管弦楽団第103回定期演奏会(2019年5月)

1992年からは長野県松本市を本拠地として「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」を毎年夏に開催することになります。

この音楽祭は2015年からは「セイジ・オザワ松本フェスティバル」に名称を変更し、松本市の夏の風物詩として親しまれています。

サン=サーンス:序奏とロンド・カプリチオーソ

小澤征爾指揮:サイトウ・キネン・オーケストラ
ヴァイオリン:アンネ=ゾフィー・ムター

動画は2018年12月5日、サントリー・ホールで行われたドイツ・グラモフォンの創立120周年を記念したコンサートの様子です。

ヴァイオリンのアンネ=ゾフィー・ムターは、小澤征爾が長年薫陶を受けた指揮者カラヤンに見出された現代を代表するヴァイオリニストです。

カラヤンの秘蔵っ子と言ってもよい2人はこれまで数々の共演を重ねてきていますが、サイトウ・キネンとの共演は初めてです。

そして演奏している「序奏とロンド・カプリチオーソ」は小澤征爾が世界へ羽ばたくきっかけとなったブザンソン国際コンクールの第2次予選で課題に出された曲です。

このコンサートのライヴ録音が発売されていますが、小澤征爾が指揮しているのはこのサン=サーンスのみです。

【収録曲】
1. チャイコフスキー:歌劇『エフゲニ・オネーギン』 Op.24~ポロネーズ
2. チャイコフスキー:交響曲第5番ホ短調 Op.64
3. ベートーヴェン:ヴァイオリンと管弦楽のためのロマンス第1番ト長調 Op.40
4. サン=サーンス:序奏とロンド・カプリチオーソ イ短調 Op.28

ディエゴ・マテウス指揮(1-3)
小澤征爾指揮(4)
サイトウ・キネン・オーケストラ
ヴァイオリン:アンネ=ゾフィー・ムター

ウィーン国立歌劇場音楽監督に就任

2002年1月、小澤征爾は日本人指揮者として初めてとなるウィーン・フィル恒例のニューイヤーコンサートの指揮台に立ちます。

ニューイヤー・コンサート2002 [Blu-ray]
小澤征爾指揮:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

そして同年9月ウィーン国立歌劇場音楽監督に就任します。

カラヤンのアシスタントとしてオペラを学び始めてから34年の月日が経っていました。

オペラ漬けの日々を送る小澤征爾は日本では若い音楽家がオペラを学ぶ機会が少ないと感じ、ローム株式会社の創業者、佐藤研一郎の援助を得て「小澤征爾音楽塾」を設立します。

師カラヤンが小澤征爾に教えたように、今度は小澤征爾自身が若い音楽家にオペラを通して音楽を教える場を作ったのでした。

今世紀に入ってからは特に教育に情熱を注いでいて長野、奥志賀で開催される「小澤国際室内楽アカデミー奥志賀」やスイスで開催される「小澤征爾スイス国際アカデミー」もそうした活動の一部です。

チャイコフスキー:弦楽セレナーデより

小澤征爾スイス国際アカデミー2011より

ウィーン国立歌劇場との契約期間は2007年までの5年間であったのを3年延ばした小澤征爾は2010年に音楽監督を退任することになります。

小澤征爾の名盤

小澤征爾の数多い録音の中から特に関係の深いボストン響、サイトウ・キネン、ベルリン・フィルとの録音を管理人の独断と偏見でご紹介したいと思います。

最初にご紹介するのは長年音楽監督を務めたボストン交響楽団とのマーラーの交響曲第2番「復活」です。

終楽章の宗教的な美しさを感じさせる声楽のソロから圧巻の高揚をみせるラストを小澤征爾の情熱的な指揮が導きます。

小澤征爾の「復活」と言えば個人的には1995年6月、長崎の浦上天主堂で行われた「平和への復活コンサート」での新日本フィルの演奏(テレビ放映)がとても印象に残っているのですが、2006年7月、病気明けの小澤征爾が音楽塾でまさしく「復活」を演奏すると言う劇的なコンサートに足を運ぶことが出来たのもとても印象に残っています。

サイトウ・キネンとの録音もある「復活」ですが、ご紹介するのは1986年のボストン響との録音です。

キリ・テ・カナワとマリリン・ホーンと言う2人の名歌手によるソロも素晴らしい1枚です。

【収録情報】
マーラー:交響曲第2番ハ短調「復活」
小澤征爾指揮
ボストン交響楽団
タングルウッド音楽祭合唱団
ソプラノ:キリ・テ・カナワ
メゾ・ソプラノ:マリリン・ホーン
録音:1986年

次にご紹介するのは記事の中でもご紹介したサイトウ・キネンが1989年から1991年にかけてヨーロッパツアーを行った際に録音されたブラームスの交響曲全集です。

1990年のロンドンの有名な「プロムス」での熱狂的なライヴ映像を収録したDVDが発売されていましたが、現在は廃盤となっているようで残念です。

ブラームスの第1番は2010年のニューヨーク、カーネギーホールでのライヴ収録盤も出ていますが、個人的にはこの全集版の方がオススメです。

【収録情報】
ブラームス:交響曲全集
小澤征爾指揮
サイトウ・キネン・オーケストラ
録音:1990年(第1番)1989年(第4番)1991年(第2番,第3番)

サイトウ・キネンでもう1枚は「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」が開幕した1992年に取り上げられたチャイコフスキーの弦楽セレナード。カップリングはモーツァルトです。

サイトウ・キネン・オーケストラの弦楽セクションによる豊潤でドラマティックなチャイコフスキーが印象的な1枚です。

【収録情報】
1. チャイコフスキー:弦楽セレナード ハ長調 op.48
2. モーツァルト:ディヴェルティメント ニ長調 K.136
3. モーツァルト:セレナード第13番ト長調 K.525『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』


小澤征爾指揮
サイトウ・キネン・オーケストラ

録音:1992年

最後は1961年、若干26歳にして初めて指揮台に立ってから度々客演しているベルリン・フィルと1988年6月の定期演奏会で演奏されたオルフの「カルミナ・ブラーナ」です。

【収録情報】
オルフ:カルミナ・ブラーナ

小澤征爾指揮
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
晋友会合唱団
ベルリン・シュターツ・ドーム少年合唱団

ソプラノ:エディタ・グルベローヴァ
テノール:ジョン・エイラー
バリトン:トーマス・ハンプソン
 
録音時期:1988年6月

このアルバムに関してはこちらの記事に詳しく書いていますので、あわせてお読みください。

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参考資料:小澤征爾著「ボクの音楽武者修行」新潮文庫
小澤征爾著「おわらない音楽-私の履歴書」日本経済新聞出版社
小澤征爾語り/有働由美子インタビュー「小澤征爾指揮者を語る-音楽と表現」100年インタビュー制作班編
小澤征爾×村上春樹「小澤征爾さんと、音楽について話をする」(株)新潮社

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