ヘルベルト・フォン・カラヤン【経歴と名盤、youtube動画】
ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan)(1908-1989)はベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の終身指揮者、芸術監督として活躍する傍ら、ウィーン国立歌劇場の総監督を務めるなど20世紀のクラシック音楽界で「帝王」とまで称されたオーストリアの指揮者です。
この記事ではそんなカラヤンの生涯を動画を交えながらご紹介しようと思います。
目次
生い立ち
カラヤンは1908年、音楽の好きな医師の息子としてオーストリアのザルツブルクに生まれました。
幼いころからピアノを学び始め7歳でモーツァルテウム音楽院に入学したカラヤンですが、父親の意向もあり高校では工学系の卒業論文を書き、大学もウィーン工科大学へ進学しています。
しかしピアニストになりたかったカラヤンはウィーン工科大学を間もなく退学し、ウィーン音楽院(現:ウィーン国立音楽大学)で学ぶことになります。
後にベルリン・フィルの指揮者となってからもチェンバロを弾き振りするカラヤンの姿がベルリン・フィルの公式チャンネルで見ることが出来ます。
ヨハン・ゼバスティアン・バッハ ブランデンブルク協奏曲 第3番より
チェンバロ:ヘルベルト・フォン・カラヤン
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1968)
カラヤンはモーツァルテウム音楽院の楽長であった指揮者で音楽学者としても著名なベルンハルト・パウムガルトナー(1887-1971)から指揮者になることを勧められ、彼の下で学びながら指揮者への道を歩み始めることになります。
ウィーン音楽院ではアレクサンダー・ヴンデラー、フランツ・シャルクの下でも研鑽を重ねました。
指揮者デビュー
1929年、当時20歳のカラヤンはモーツァルテウム管弦楽団を指揮してデビューを果たし、その後ウルム市立歌劇場の指揮者としてキャリアを積んでいきます。
1934年にウルム市立歌劇場との契約を満了したカラヤンは翌1935年に27歳の若さでアーヘン市立歌劇場の音楽総監督に就任します。
ベルリン国立歌劇場、ウィーン国立歌劇場などの主要な歌劇場へもデビューを果たしたカラヤンは1938年、初めてベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮台に立つことになります。
順調に指揮者としてのキャリアを積み重ねていくカラヤンでしたが、1945年、ドイツが無条件降伏したことによって、カラヤンがナチス党員であったことから、当局によってしばらくの間、指揮活動から遠ざけられることになります。
1947年10月、公的な指揮活動の許可を得て正式に復帰を果たしたカラヤンは、ミラノ・スカラ座、ウィーン国立歌劇場、ウィーン交響楽団などの著名なオーケストラと歌劇場の指揮台に立ち、輝かしい成功を収める他、イギリスEMIの名プロデューサー、ウォルター・レッグ(1906-1979)が創設したフィルハーモニア管弦楽団と多数の録音を行い、同オーケストラの名声を高めるのに一役買うなどめざましい活躍をします。
カラヤンとベルリン・フィル
1954年11月、ベルリン・フィルとドイツ音楽界に長年君臨し続けた20世紀前半を代表する指揮者、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1886-1954)がこの世を去ります。
この時ローマに滞在していたカラヤンは「国王死す。(新)国王万歳!」と言う匿名の電報を受けとったと言う逸話が遺されています。
フルトヴェングラーはこの才能溢れる若い指揮者を嫉妬からなのか相当警戒していたようで、1938年に初めてベルリン・フィルに登場した後、そのめざましい活躍を激賞される姿を目の当たりにし、カラヤンをベルリン・フィルから遠ざけるように手を回し、そのためフルトヴェングラーの在世中はベルリン・フィルへはわずかな回数しか指揮台に立つことはありませんでした。
フルトヴェングラーの後任候補としては、バンベルク交響楽団首席指揮者のヨーゼフ・カイルベルト(1908-1968)、ウィーン国立歌劇場総監督のカール・ベーム(1894-1981)、バイエルン放送交響楽団首席指揮者のオイゲン・ヨッフム(1902-1987)などの名前があがり、フルトヴェングラー自身は生前シュトゥットガルト室内管弦楽団を結成し活躍していたカール・ミュンヒンガー(1915-1990)を推していたようです。
当時の名だたる巨匠たちが後継の名前にあがる中で、その最有力候補は当時43歳のセルジュ・チェリビダッケ(1912-1996)でした。
チェリビダッケはフルトヴェングラーが戦後、ナチスとの関係から謹慎生活に入る中、暫定首席指揮者となったレオ・ボルヒャルト(1899-1945)がアメリカ軍兵士によって誤射されて死亡するという危急の中、登場しました。
当時無名と言って良い若手であったチェリビダッケはその類まれな記憶力で膨大なレパートリーを暗譜で見事な演奏をベルリン・フィルと重ねていきました。
聴衆と批評家たちもこの新進気鋭のルーマニア人指揮者に熱狂し、チェリビダッケは瞬く間にフルトヴェングラーの後継候補として頭角を現し始めました。
さらにフルトヴェングラーを敬愛するチェリビダッケは、フルトヴェングラーの非ナチ化裁判に協力するためにも奔走し、フルトヴェングラーの復帰への手助けもしました。
戦後の混乱期にベルリン・フィルに大きな貢献をしたチェリビダッケでしたが、オーケストラに妥協を許さないリハーサルやその独裁的な態度にオーケストラ団員との間には徐々に軋轢が生まれていきました。
フルトヴェングラーが亡くなるころにはこの亀裂は既に決定的なものになっていて、団員の多くから反発を受けるようになっていました。
1954年の12月にはベルリン・フィルの支配人がチェリビダッケを批判し、フルトヴェングラーの後継者としてふさわしくないとする書簡をベルリン・フィルを担当する省庁の大臣あてに送っています。
そんな中、翌1955年に行われたアメリカへのコンサート・ツアーに際し、指揮者として白羽の矢が立ったのがカラヤンでした。
このツアー中にフルトヴェングラーの後任としてベルリン・フィルの芸術監督に就任することが発表されます。
それまで数えるほどの回数しかベルリン・フィルの指揮台に立つことのなかったカラヤンが選ばれ、戦後400回以上ベルリン・フィルの指揮台に立ち活躍してきたチェリビダッケは失意のうちにベルリン・フィルと袂を分かち、以後ベルリン・フィルの指揮台に立ったのは38年後の1992年、当時の大統領の要請に応えた一度きりのことでした。
帝王カラヤン
1955年にベルリン・フィルの芸術監督に就任したカラヤンは翌1956年、ウィーン国立歌劇場の芸術監督に就任します。(1964年8月まで)
世界の人気を二分する2つのオーケストラの芸術監督に就任したカラヤンはまさしく楽壇の帝王として君臨することになります。
この2つのオーケストラ以外にもウィーン交響楽団、ミラノ・スカラ座、フィルハーモニア管弦楽団などの指揮台にもたびたび登場します。
1963年、現在の本拠地であるフィルハーモニーが完成します。
1967年にザルツブルク復活祭音楽祭を創設、1972年にはザルツブルク聖霊降臨祭音楽祭も創設し、精力的に演奏活動を行います。
この1960年代から70年代終わり頃までが、帝王と呼ばれたカラヤンの全盛期ともされ、演奏、録音、オペラの総合演出、音楽祭の監督にめざましい活躍をします。
ドヴォルザーク 交響曲第9番「新世界より」
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1966)
カラヤンの遺産
私生活においても自家用ジェットを自ら操縦し、車好きでスピード狂としても有名だったカラヤンは様々な高級車を所有していました。
このように最新のテクノロジーにも大きな興味を示していたカラヤンは1970年代末からデジタル録音をいち早く認め、その後積極的に導入しただけでなく、1982年には自らのレパートリーを映像化するために映像制作会社を立ち上げます。
そこで製作された映像作品はレーザーディスク全盛の時代に「カラヤンの遺産(レガシー)」として発表され、その一部はBlu-ray Disc化もされています。
映像に対しても独自の美意識を持つカラヤンは、演奏会の様子を映像収録すると共に、各パートごとのアップ映像を別撮りし、挿入すると言う独特なものでした。
このため演奏会としての臨場感には少し欠けてしまう感があり、整然と並んだ楽団員と楽器の角度まで揃った不自然なパートのアップに個人的には若干の違和感を覚えられずにはいられません。
楽曲によってはオーケストラの全景とパートのアップ映像で楽団員の配置順が逆になっている映像もあったようです。
ブラームス 交響曲第1番より
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1973)
しかしこれらの貴重な映像はカラヤンの遺した素晴らしい遺産であることに変わりはなく、その格調高いタクト(指揮棒)から生み出される素晴らしい音楽の数々を聴くだけでなく見て楽しめる貴重な資料でもあります。
ぜひ全ての映像作品をリマスターして欲しいものです。
カラヤンの遺産 ベートーヴェン 交響曲第9番「合唱付き」
カラヤンの遺産 R.シュトラウス アルプス交響曲
カラヤンの遺産 ライヴ・イン・大阪 1984
レスピーギ 交響詩「ローマの松」他
ザビーネ・マイヤー事件
1955年に芸術監督に就任して以来、四半世紀にわたりベルリン・フィルと輝かしい足跡を残してきたカラヤンですが、1982年、女性クラリネット奏者、ザビーネ・マイヤー(1959-)の入団を巡りベルリン・フィルと対立することになります。
これはカール・ライスター(1937-)と並ぶもう一つの首席クラリネット奏者が空席となったため行われたオーディションを受けたザビーネ・マイヤーに対し、強い関心を示したカラヤンとそれを認めない楽団員たちの対立でした。
ベルリン・フィルではオーディションで承認された後、試用期間を経て楽団員の投票による承認を受け、芸術監督の同意を得て採用されるルールになっていました。
カラヤンの指名によりアメリカ公演に客員首席クラリネット奏者として参加したザビーネ・マイヤーですが、カラヤンとベルリン・フィルの軋轢はさらに深まっていくことになります。
同年11月に楽員全員による投票でマイヤーの採用は否決されますが、その後も対立を深めるカラヤンとベルリン・フィルの姿を目の当たりにしたマイヤーは2回目の楽員投票を目前に控えた翌1983年5月、自らベルリン・フィルを去る決意をします。
マイヤーの採用が否決された理由としては彼女の音が他の楽員と融合しないと言う意見が強かったようですが、四半世紀の間に徐々に積もりつつあったカラヤンとベルリン・フィルの軋轢に巻き込まれてしまった節もあるように思います。
ずいぶん以前に見たドキュメンタリー番組でベルリン・フィルの楽団員がインタビューに答えて次のようなことを言っていたのが印象に残っています。
「ザビーネ・マイヤーが素晴らしい奏者であることは誰もが認めるところです。しかし、彼女をベルリン・フィルの管楽器セクションに迎えるということは、ベルリン・フィルの弦楽器セクションにアンネ=ゾフィ・ムターを迎えるようなものなのです。」
アンネ=ゾフィ・ムター(1963-)はわずか13歳でカラヤンに招かれベルリン・フィルでデビューを果たしたヴァイオリニストです。
ザビーネ・マイヤーの音はソリスティックでオーケストラの音とは融合しないと言う意味であったと解釈しています。
余談ですがこの年までベルリン・フィルに女性団員が在籍したことはありません。
ベルリン・フィルのヴァイオリンパートに最初の女性メンバーが加わるのはマイヤーが去った数か月後、1983年9月のことでした。
モーツァルト クラリネット協奏曲より
Tomàs Grau指揮 Orquestra Simfònica Camera Musicae
独奏:ザビーネ・マイヤー
ザビーネ・マイヤーの名はこの事件で一躍有名となり、以降ソロ活動や室内楽などの幅広い分野で活躍するようになり、カラヤンはベルリン・フィルとの溝をさらに深めていくことになります。
こちらの記事でご紹介する動画の中ではこの事件から数十年の時を経て、カラヤンの後任のアバドのタクトの下、ルツェルン祝祭管弦楽団の中でベルリン・フィルの首席奏者たちと席を並べて交響曲を奏でるザビーネ・マイヤーの姿がご覧になれます。
晩年と功績
ザビーネ・マイヤーを巡る事件の後もベルリン・フィルとの溝を徐々に深めていくカラヤンは、西欧を代表するもう一つの楽団、ウィーン・フィルとの結びつきを深めていきます。
四半世紀に及ぶベルリン・フィルとの関係の中で徐々に独裁色を強めて行ったカラヤンはかつてのチェリビダッケのように楽員たちから拒否反応を示されるようになります。
カラヤンも予定されていたレコーディングや音楽祭にベルリン・フィルではなくウィーン・フィルを率いて臨むようになります。
ベルリン・フィルとの関係が修復不能な状況に陥る中、徐々に健康も蝕まれていくカラヤンは公演をキャンセルすることも多くなっていきます。
1989年4月、ベルリン・フィルの芸術監督と終身指揮者を辞任したカラヤンは同年7月、ザルツブルク郊外の自宅で心臓発作を起こしこの世を去ります。
ベルリン・フィル、ウィーン・フィルをはじめとするヨーロッパの著名なオーケストラと名演の数々を繰り広げたカラヤンはおびただしい数の録音を遺しており、今でもその演奏を堪能することが出来ます。
また先ほど紹介した自身の設立した映像制作会社を通じて数々の映像作品を遺しています。
また若手の演奏家の起用にも積極的で、1972年にはカラヤン・アカデミーと呼ばれるオーケストラ団員を養成するためのアカデミーを創設しました。
アンネ=ゾフィ・ムター(1963-)をわずか13歳で起用した他にも、その最晩年の1988年のジルヴェスター・コンサートでは当時17歳のエフゲニー・キーシン(1971-)をソリストに起用しています。
若手指揮者の育成にも積極的で小澤征爾、マリス・ヤンソンス、クリスティアン・ティーレマンなどを輩出しています。
ベルリン・フィルと共に黄金時代を築いたカラヤンはまさしく楽壇に君臨する帝王で、20世紀を代表する指揮者と言って良いでしょう。
カラヤンのyoutube動画
目を閉じて自身の音楽世界に没入するかのようなカラヤンの指揮ぶりは大変印象的なものがありますが、楽員からはアイコンタクトが取れないと不評を買っていた側面もあるようです。
カラヤンの演奏動画はダイジェストでベルリン・フィルの公式チャンネルにアップされていますのでいくつか紹介したいと思います。
ベートーヴェン 交響曲第9番「合唱付き」 リハーサル(1977)
ベートーヴェン 交響曲第5番より(1972)
ドビュッシー 交響詩「海」より(1978)
チャイコフスキー 交響曲第5番より(1973)
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
カラヤンの名盤
膨大な録音を遺しているカラヤンなので、名盤を絞るのは大変難しいですが、代表的な録音をいくつかご紹介しようと思います。
最初にご紹介するのはブラームスの交響曲第1番です。正規盤だけで7種類あり、ドイツ・グラモフォンでは3種類の交響曲全集を遺していますが、今回ご紹介するのは1987年、晩年の録音で唯一のデジタル録音による作品です。
カップリングは1983年に録音されたハイドンの主題による変奏曲です。
オーケストラの響きにとことんこだわったカラヤンならではの豊麗な響きに圧倒されます。
youtube参考音源のリンクはこちら⇒【第1楽章】【第4楽章】
ブラームス 交響曲 第1番 ハ短調 op.68
ブラームス ハイドンの主題による変奏曲 op.56a
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
録音場所:ベルリン、フィルハーモニー
録音時期:1987年1月(1)、1983年2月(2)
次にご紹介するのはリヒャルト・シュトラウスのアルプス交響曲です。1980年の録音ですが、カラヤンがこの作品を録音するのはこの時が初めてです。
絢爛豪華な響きで展開されるスケールの大きな音楽に目の前にアルプスの壮大なパノラマが映し出されるようです。
youtube参考音源のリンクはこちら⇒【日の出】【頂上にて】
リヒャルト・シュトラウス アルプス交響曲 op.64
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
録音場所:ベルリン、フィルハーモニー
録音時期:1980年12月
次にご紹介するのはチャイコフスキーの交響曲第5番です。
カラヤンとベルリン・フィルのコンビによるチャイコフスキーも複数の録音がありますが、今回ご紹介する1971年の録音はその中でも名盤との評価の高い1枚です。
ベルリンのイエス・キリスト教会で録音された音源は残響がやや長いようにも感じられますが、その分ライヴのような緊迫感と迫力が感じられます。
チャイコフスキー 交響曲 第5番 ホ短調 Op.64
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
録音場所:ベルリン、イエス・キリスト教会
録音時期:1971年9月
「Amazon Music Unlimited」ならこれらのアルバムを含む100枚を優に超える膨大な数のカラヤンの録音を聴き放題で楽しむことが出来ます!
最後にご紹介するのはオムニバス作品ですが、1994年に発売され全世界で500万枚超のメガ・ヒットを記録したアルバム「アダージョ・カラヤン」の20周年を記念して発売された2枚組のアルバム「アダージョ・カラヤンDX」です。
元祖「アダージョ・カラヤン」では、ベルリン・フィルとの演奏のみで構成されていましたが、デラックス盤ではウィーン・フィルの演奏も加わった超豪華版です。
アダージョ・カラヤンDX
収録曲
Disc1
・マスカーニ:『カヴァレリア・ルスティカーナ』間奏曲
・パッヘルベル:カノン
・マーラー:アダージェット(交響曲第5番から)
・マスネ:タイスの瞑想曲
・グルック:精霊の踊り(『オルフェオとエウリディーチェ』から)
・チャイコフスキー:愛のテーマ(幻想序曲『ロメオとジュリエット』から)
・アルビノーニ/ジャゾット:弦楽とオルガンのためのアダージョ
・グリーグ:ソルヴェイグの歌(『ペール・ギュント』第2組曲から)
・ドビュッシー:牧神の午後への前奏曲
・ヴィヴァルディ:ラルゴ(協奏曲集『四季』の『冬』から)
・シベリウス:悲しきワルツ
・バッハ:G線上のアリア(管弦楽組曲第3番から)
Disc2
・オッフェンバック:ホフマンの舟歌(歌劇『ホフマン物語』から)
・ビゼー:アダージェット(『アルルの女』第1組曲から)
・グリーグ:オーセの死(『ペール・ギュント』第1組曲から)
・ヴィヴァルディ:ラルゴ(2つのヴァイオリンのための協奏曲イ短調RV523から)
・ヴェルディ:『椿姫』前奏曲
・モーツァルト:ロマンス(『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』から)
・シベリウス:トゥオネラの白鳥
・チャイコフスキー:エレジー(『弦楽セレナード』から)
・プッチーニ:ハミング・コーラス(歌劇『蝶々夫人』から)
・ラヴェル:亡き王女のためのパヴァーヌ
・レスピーギ:シチリアーナ(『リュートのための古風な舞曲とアリア』第3組曲から)
・ビゼー:『カルメン』第3幕への間奏曲
・ショパン/ダグラス:ノクターン (『レ・シルフィード』から)
・ヘンデル:アリア(合奏協奏曲ロ短調 op.6-12 第3楽章)
・ワーグナー:イゾルデの愛の死(『トリスタンとイゾルデ』から)
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1961年~1986年
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参考資料:ヘルベルト・ハフナー著「ベルリン・フィル あるオーケストラの自伝」春秋社 2009
「カラヤン、ヘルベルト・フォン(1908-1989) プロフィール」『HMV&BOOKS online』URL:https://www.hmv.co.jp/artist_カラヤン、ヘルベルト・フォン%EF%BC%881908-1989%EF%BC%89_000000000213588/biography/
「ヘルベルト・フォン・カラヤン バイオグラフィー」『sonymusic』URL:https://www.sonymusic.co.jp/artist/HerbertvonKarajan/profile/
ルーペルト・シェトレ著「指揮台の神々 世紀の大指揮者列伝」音楽之友社 2003
レコード芸術編「クラシック不滅の巨匠たち」音楽の友社 2019