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レナード・バーンスタイン【経歴と名盤、youtube動画】

2020年9月21日

レナード・バーンスタイン(1918-1990)はニューヨーク・フィルハーモニックの音楽監督として活躍する傍ら、ピアニストや作曲家としても活躍した20世紀のクラシック音楽界においてカラヤンと人気を二分した指揮者です。

この記事ではそんなバーンスタインの生涯を動画を交えながらご紹介しようと思います。

生い立ち

バーンスタインは1918年、ウクライナ系のユダヤ人移民の息子としてアメリカ合衆国マサチューセッツ州ローレンスに生まれました。

家庭環境としては音楽との関りはありませんでしたが、1928年、10歳の頃に叔母から譲り受けた中古ピアノがバーンスタインを音楽の道に導くことになります。

ボストン・ラテン・スクールに入学後の1931年、ニューイングランド音楽院でもピアノを学び始めるバーンスタインでしたが、父親は音楽の道に進むことに反対していたようです。

1935年、ハーバード大学の音楽専攻課程に入学したバーンスタインは作曲をアメリカの作曲家、ウォルター・ピストン(1894-1976)に師事します。

1937年、ミネアポリス交響楽団(現ミネソタ管弦楽団)の指揮者ディミトリ・ミトロプーロス(1896-1960)やアメリカを代表する作曲家、アーロン・コープランド(1900-1990)と出会い大きな影響を受けたバーンスタインはこの年、ピアニストとしてもデビューしています。

1939年、ハーバード大学を卒業したバーンスタインはフィラデルフィアのカーティス音楽院に入学、後にシカゴ交響楽団の音楽監督として活躍する指揮者のフリッツ・ライナー(1888-1963)に師事します。

1940年にはタングルウッドでボストン交響楽団の指揮者であったセルゲイ・クーセヴィツキー(1874-1951)に指揮を学びます。

1941年にカーティス音楽院を卒業したバーンスタインはいよいよ指揮者としての道を本格的に歩み始めることになります。

指揮者デビュー

1943年8月、ニューヨーク・フィルハーモニック(当時はニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団)の常任指揮者になったばかりのアルトゥール・ロジンスキ(1892-1958)の下で、ニューヨーク・フィルの副指揮者に就任します。

同年11月14日、急病のために指揮台に立てなくなった大指揮者ブルーノ・ワルター(1876-1962)の代役としてニューヨーク・フィルを指揮、ラジオ放送もされていたこのコンサートが大きな評判を呼び、センセーショナルなデビューを飾ることになります。

25歳のアメリカの青年がニューヨーク・フィルにデビューと言う記事は翌日のニューヨーク・タイムスの1面を飾り、バーンスタインは一夜にして有名な指揮者となります。

1944年、自作の交響曲第1番「エレミア」バレエ「ファンシー・フリー」ミューージカル「オン・ザ・タウン」などが相次いで初演され、作曲家としても活躍します。

1945年、ニューヨーク・シティ交響楽団の音楽監督に就任(~1948)。

1947年、イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団(当時はパレスチナ管弦楽団)を指揮、同オーケストラとは以後終生に渡って密接な関係を続けることになります。

1951年、チリ出身の女優でピアニストのフェリシア・モンテアレグレと結婚。

1953年にはアメリカ出身の指揮者としては初めてミラノ・スカラ座の指揮台に立つなど西欧の楽壇での評価も得るようになります。

バーンスタインとニューヨーク・フィル

1943年にバーンスタインがニューヨーク・フィルの副指揮者に就任した当時の音楽監督、アルトゥール・ロジンスキはオーケストラ内での権限を強め、多くの楽団員をリストラするなどオーケストラの改革に努めますが、そのあまりにも厳格な姿勢から楽団員に疎まれ、また経営陣との折り合いも悪く、結局1947年に音楽監督を解任されます。

以後、しばらくの間は音楽監督を置かず、ブルーノ・ワルターが音楽顧問と言う立場でニューヨーク・フィルの中心的存在となります。

1949年、常任指揮者として招かれたディミトリ・ミトロプーロスは1951年に音楽監督に就任します。

ミトロプーロスは幅広いレパートリーで現代音楽にも積極的に取り組みますが、これがまた楽団員や保守的な聴衆から反感を買うことになります。

これらの楽団と指揮者を巡る問題はその求心力を低下させ、楽団を低迷させる原因にもなっていました。

1957年、ミトロプーロスの肩書は音楽監督から首席指揮者に代わり、この時もう1人の首席指揮者として登場したのが、この年39歳を迎えるバーンスタインでした。

翌1958年、低迷する名門オーケストラを救うべくアメリカ生まれの指揮者としては初の音楽監督にバーンスタインが就任します。

バーンスタインは誰に対しても気さくに接するその大らかな性格と、それとは対照的に高揚してくると指揮台の上でジャンプするような情熱的な指揮と音楽で瞬く間に聴衆を魅了していきました。

チャイコフスキー 交響曲第4番より

レナード・バーンスタイン指揮 ニューヨーク・フィルハーモニック

当時のCBSレコードと独占契約を結び多数の録音を残す傍ら、ヤング・ピープルズ・コンサートと題されるコンサートを企画し、自ら指揮と司会を担当して当時の子供たちにわかりやすくクラシック音楽をレクチャーするコンサートを定着させました。

このシリーズは1962年からテレビ中継されてクラシック音楽の教育と普及に大きな貢献を果たすとともに大変な人気を博しました。

ヤング・ピープルズ・コンサートより「What Is Classical Music?」

レナード・バーンスタイン指揮 ニューヨーク・フィルハーモニック

この短い動画からもバーンスタインの気さくな人柄をうかがうことが出来、そのスター性も相まってさらに人気が高まっていくことになります。

ニューヨーク・フィルとのコンビで快進撃を続けるバーンスタインは1966年にはウィーン国立歌劇場でもデビューを果たし、ウィーン・フィルと初の録音を行います。

以後、ウィーン・フィルとの関係はニューヨーク・フィル、イスラエル・フィルと並んでバーンスタインにとって重要なものになります。

1969年に作曲の時間を取るためと言う理由からニューヨーク・フィルの音楽監督を辞任したバーンスタインはそれ以降特定のオーケストラの音楽監督や首席指揮者のポストに就くことはありませんでしたが、ヨーロッパの数々の著名なオーケストラに定期的に客演し圧倒的な人気を博します。

作曲家バーンスタイン

指揮者として輝かしいキャリアを重ねるバーンスタインですが、バーンスタイン自身は指揮者としてよりも作曲家として後世に遺る作品を書き上げたいと熱望していたようです。

最初の交響曲を書いたのは1942年、24歳の時のことで生涯に3曲の交響曲を遺しています。

バーンスタイン 交響曲第1番「エレミア」より

レナード・バーンスタイン指揮 イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団

バーンスタイン 交響曲第2番「不安の時代」より

レナード・バーンスタイン指揮 ロンドン交響楽団
ピアノ:クリスティアンツィマーマン

作品の中にはユダヤ教やローマ・カトリックなどの宗教的な影響を感じさせる作品もあり、ミサ曲も書いています。

バーンスタイン チチェスター詩篇

レナード・バーンスタイン指揮 イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団

ミュージカルや映画のための音楽も書いており、結果的にはこれらの作品がバーンスタインの代表曲となりました。

晩年と功績

ニューヨーク・フィルの音楽監督を辞任したバーンスタインはその後もニューヨーク・フィル、ウィーン・フィル、イスラエル・フィルをはじめコンセルトヘボウ管、バイエルン放送響、フランス国立管などのヨーロッパの主要オーケストラを舞台に目覚ましい活躍を続けます。

当時のクラシック音楽界で人気を二分したカラヤンとはそのライバル関係がまことしやかに記事にされることがありますが、実際にはそのエピソードの大多数が脚色されたものであるようです。

ただひとつ言えることはバーンスタインがベルリン・フィルの指揮台にあがったのは1979年10月の公演のみで、この時にはマーラーの交響曲第9番が演奏されています。

ウィーン・フィルはこの2人のスター指揮者が活躍したオーケストラですが、1989年にカラヤンが死去した2か月後に行われた追悼演奏会ではバーンスタインもその指揮台にあがっています。

バーンスタインの下で学んだ指揮者も多く、小澤征爾(1935-)は1961年からニューヨーク・フィルの副指揮者として研鑽を重ね、カラヤンの後任のクラウディオ・アバド(1933-2014)も1963年にミトロプーロス国際指揮者コンクールで優勝した資格として1年間バーンスタインの下で助手を務めています。

またタングルウッド音楽祭シュレスヴィヒ=ホルシュタイン音楽祭、札幌で開催されるパシフィック・ミュージック・フェスティバル(PMF)などでも多くの後進の指導に当たりました。

大植 英次(1956-)、佐渡裕(1961-)などもこれらの音楽祭を通じてバーンスタインの門戸をたたくことになります。

1990年6月、上述したパシフィック・ミュージック・フェスティバル(PMF)をスタートさせたバーンスタインですが既にこの頃には肺がんはかなり進行しており、8月に開催されたタングルウッド音楽祭でのボストン交響楽団との共演が最後の舞台となり、同年10月14日にこの世を去ります。

バーンスタインのyoutube動画

同時代に活躍し人気を二分したカラヤンとは常に比較されるバーンスタインですが、その指揮ぶりも実に対照的です。

目を閉じて自身の音楽世界に没入するかのようなカラヤンの指揮ぶりに対して、バーンスタインは時には指揮台の上でジャンプし、唸り声をあげ、時には指揮台の上でダンスをするように身体を揺らし、まさしくその感情を表出するかのような情熱的な指揮ぶりが印象的です。

そんなバーンスタインの指揮ぶりをyoutube公式チャンネルからいくつかご紹介したいと思います。

ヴェルディ レクイエムより

レナード・バーンスタイン指揮 ロンドン交響楽団

マーラー 交響曲第2番「復活」より

レナード・バーンスタイン指揮 ロンドン交響楽団

シベリウス 交響曲第2番より

レナード・バーンスタイン指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

バーンスタインの名盤

カラヤンと同様に膨大な録音を遺しているバーンスタインなので、名盤を絞るのは大変難しいですが、代表的な録音をいくつかご紹介しようと思います。

最初にご紹介するのはベートーヴェンの交響曲第9番のBlu-rayです。

1989年12月25日にベルリンの壁が崩壊したことを記念したコンサートでは旧東西ドイツのオーケストラに加え、ドイツの東西分離のきっかけとなったアメリカと旧ソ連、それに第二次大戦時のドイツの敵国イギリスとフランスの計6つの楽団のメンバーによって特別に編成されたオーケストラをバーンスタインが指揮しています。

バーンスタインはベルリンの壁崩壊を祝し、終楽章の歌詞の「Freude(歓喜)」を「Freiheit(自由)」に変更して歌わせています。

翌年の10月に亡くなるバーンスタインはこの時すでに肺がんに侵されていて、この映像では生命の火を燃やすような、まさしく渾身の指揮ぶりが見られます。

ベートーヴェン 交響曲第9番ニ短調 Op.125『合唱』

ジューン・アンダーソン(ソプラノ)
サラ・ウォーカー(メゾ・ソプラノ)
クラウス・ケーニヒ(テノール)
ヤン=ヘンドリンク・ローテリング(バス)
バイエルン放送合唱団
ベルリン放送合唱団のメンバー
ドレスデン・フィルハーモニー児童合唱団

バイエルン放送交響楽団
シュターツカペレ・ドレスデンのメンバー
ニューヨーク・フィルハーモニックのメンバー
ロンドン交響楽団のメンバー
レニングラード・キーロフ劇場(現マリインスキー劇場)管弦楽団のメンバー
パリ管弦楽団のメンバー

収録時期:1989年12月25日
収録場所:東ベルリン、シャウシュピールハウス(現コンツェルトハウス)

この映像のダイジェスト動画がアップされていますのでご紹介しておきます。

次にご紹介するのは記事の中でもご紹介したバーンスタインが生涯でただ一度、ベルリン・フィルを指揮した際のライヴ録音です。

マーラーの作品にひときわ造詣が深く、生涯をかけて取り組んだバーンスタインとベルリン・フィルのコンビによる伝説のライヴです。

ライヴ録音ならではの熱気を感じさせる素晴らしい演奏です。

マーラー 交響曲 第9番 ニ長調
レナード・バーンスタイン指揮
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
 
録音:1979年10月 
収録:ベルリン、フィルハーモニー

最後にご紹介するのはバーンスタインとニューヨーク・フィルのコンビによる自作自演集です。

バーンスタインの代表作「ウェスト・サイド・ストーリー」、「キャンディード」序曲の他に初期のバレエ作品と映画音楽も収められています。

バーンスタイン
「キャンディード」序曲
「ウェスト・サイド・ストーリー」~シンフォニック・ダンス 
映画「波止場」~交響的組曲
バレエ「ファンシー・フリ-」

レナード・バーンスタイン指揮
ニューヨーク・フィルハーモニック
録音:1960年、1961年

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参考資料:ルーペルト・シェトレ著「指揮台の神々 世紀の大指揮者列伝」音楽之友社 2003
レコード芸術編「クラシック不滅の巨匠たち」音楽の友社 2019
「LEONARD BERNSTEIN レナード・バーンスタイン プロフィール」『sonymusic』URL:https://www.sonymusic.co.jp/artist/LeonardBernstein/profile/
「レナード・バーンスタイン BIOGRAPHY」『UNIVERSAL MUSIC JAPAN』URL:https://www.universal-music.co.jp/leonard-bernstein/biography/
「レナード・バーンスタイン」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』2020年3月15日 (日) URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/レナード・バーンスタイン