クラウディオ・アバド【経歴と名盤、youtube動画】
クラウディオ・アバド(Claudio Abbado)(1933-2014)はカラヤンの後を継ぎベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の芸術監督として活躍したイタリア出身の指揮者です。
この記事ではそんなアバドの生涯を動画を交えながらご紹介しようと思います。
目次
生い立ち
アバドはイタリア、ミラノにあるヴェルディ音楽院の院長を務めたヴァイオリン奏者の父のもとに生まれ、1949年から1955年までそのヴェルディ音楽院で作曲とピアノを学んだ後、1956年から1958年にかけてはウィーン音楽院(現ウィーン国立音楽大学)で名教師として多数の著名な門下を輩出したハンス・スワロフスキー(1899-1975)に師事します。
同時期にスワロフスキーの下で学んだ指揮者のズービン・メータ(1936-)とは共にウィーン楽友協会合唱団の一員としてリハーサルに潜り込み、ブルーノ・ワルターやカラヤンと言った巨匠たちの練習風景を学んだというエピソードが残されています。
1958年、タングルウッド音楽祭でセルゲイ・クーセヴィツキー賞を受賞し注目されたアバドはいよいよ本格的に指揮者としての道を歩み始めます。
指揮者デビューからベルリン・フィルまで
1959年、指揮者としてデビューしたアバドは翌1960年、伝統あるミラノ・スカラ座でもデビューを果たします。
1963年、ミトロプーロス国際指揮者コンクールで優勝したアバドはそれにより1年間レナード・バーンスタイン(1918-1990)の助手を務める資格を得ます。
この当時の貴重な動画が公開されていますのでご紹介したいと思います。
ラヴェル 序奏とアレグロより
指揮:クラウディオ・アバド(1963)
1965年、バーンスタインの下で研鑽を重ねたアバドは、今度はカラヤンの招きでザルツブルク音楽祭に登場します。
ウィーン・フィルを指揮し、マーラーの交響曲第2番「復活」を演奏したアバドはこの演奏会の成功によって一躍名声を高めることになります。
1968年、ミラノ・スカラ座の常任指揮者に就任したアバドは1972年に音楽監督、1977年に芸術監督に就任し、1986年に辞任するまで密接な関係を続けることになります。
1979年にはロンドン交響楽団の首席指揮者にも就任し、1983年には音楽監督に就任します。(1988年まで)
1986年にはウィーン国立歌劇場の音楽監督に就任(1991年まで)する他、シカゴ交響楽団の首席客演指揮者としても活躍するなど、著名なオーケストラの主要ポストを歴任することになります。
ベルリン・フィル芸術監督に就任
1989年、実に34年の長きに渡ってベルリン・フィルの芸術監督、終身指揮者として君臨してきた帝王カラヤンが辞任の後にこの世を去ります。
カラヤンのもと、かつてない名声を得てクラシック音楽界のトップオーケストラとして君臨してきたベルリン・フィルですが、その名声の傍ら、オーケストラ内部ではそのあまりにも独裁的な指揮者の態度にストレスは限界まで達し、その晩年には様々な軋轢が表出していました。
オーケストラは次の指揮者の選任にあたって二度と同じ轍を踏まないように、ベルリン・フィル創立以来はじめてとなる楽団員の投票による選抜を行うことを決定します。
後任候補にあがった名前にはその前年にアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の首席指揮者を辞任したばかりのベルナルト・ハイティンク(1929-)、カラヤンの愛弟子でもあったボストン交響楽団の音楽監督小澤征爾(1935-)、カラヤン自身が生前後任に期待していたと伝えられるメトロポリタン歌劇場芸術監督のジェームズ・レヴァイン(1943-)、同年までパリ管弦楽団の音楽監督として活躍し、この時すでにシカゴ交響楽団との契約が決まっていたダニエル・バレンボイム(1942-)などの名前がありました。
そんな候補者たちの中でも有力だったのはクリーヴランド管弦楽団音楽監督、ウィーン国立歌劇場の音楽監督などを歴任し、ベルリン・フィルとは1950年代後半からレコーディングを行うなどその関係も30年近くに及んだロリン・マゼール(1930-2014)でした。
1989年10月8日、ベルリン・フィル楽団員の投票と協議の結果、オーケストラが指名したのがウィーン国立歌劇場の音楽監督であったクラウディオ・アバドでした。
この結果は一般の人々も意外にとらえたようですが、アバド自身も大変驚いたようで、少し考える時間が欲しいと言ったそうです。
歴史は繰り返されるのかフルトヴェングラー亡き後、それまでベルリン・フィルと400回を超える共演を果たしてきたチェリビダッケは選任されず、7回しか演奏会を行っていないカラヤンが指名され、この時も30年近く数々の共演を重ねてきたマゼールは選任されず、指名されたアバドがそれまでベルリン・フィルの指揮台に上がったのは23年の間に17回のみでした。
失意のマゼールは「新しい指揮者に多くの時間を取れるように」と言うそれらしい理由の下に、予定されていた4回の演奏会とCD12枚分もの録音をキャンセルしました。
翌1990年、アバドは正式にベルリン・フィルの芸術監督に就任します。奇しくもアバドの選挙が行われた翌月の1989年11月、東西ベルリンを分断してきたベルリンの壁は崩壊し、アバドが芸術監督に就任する1990年、ついに東西ドイツは統一することになります。
ベルリン・フィルの大きな転換点とベルリン、そしてドイツの歴史的な転換点が一致するのは偶然とは思えない運命的なもののようにも感じます。
クラウディオ・アバドとベルリン・フィル
1990年、芸術監督に就任したアバドはカラヤン時代には考えられなかったオーケストラとの関係を築いていきます。
オーケストラと一緒に演奏し、共同作業として一つの音楽を作ろうとしたアバドはマエストロ(巨匠の意)と呼ばれるのを好まず、「クラウディオ」と楽団員に呼ばれていました。
圧倒的なカリスマ性でトップダウンの意思伝達方式でリハーサルを進めていったカラヤンやチェリビダッケに対して、アバドは楽団員に急せかせたり、強いたりすることはなく、徐々に楽団員からのボトムアップの意見も増えてくるようになりました。
「そうしていただければ」「・・した方が良いのですが」と言った言葉をよく口にしたアバドのリハーサルは時としてオーケストラとの議論を起こし、ジレンマに陥ることもあったようですが、いずれにしても指揮者とオーケストラの関係性は大きく変わり、演奏に対する楽団員の自主性と責任感は大きく増しました。
ここでyoutubeの公式チャンネルで紹介されている、カラヤン、チェリビダッケ、アバドのリハーサルの様子を見てみたいと思います。
※動画はベルリン・フィル以外のオーケストラも含まれます。
早口で急き立てるかのようにすぐにオーケストラを止めるカラヤンが印象的です。
カラヤン シューマン 交響曲第4番 リハーサル(1965-1966)
後年は話し口調も少し穏やかになったように感じますが、その威厳はさらに増したようにも感じます。
若き日のチェリビダッケも晩年の姿からは想像できないくらい細身で早口です。
指揮台の上で身体を揺らすチェリビダッケに思わず口元が緩んでしまいます。
チェリビダッケ リヒャルト・シュトラウス ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら リハーサル(1965)
次の動画はカラヤンがベルリン・フィルの芸術監督に選ばれてから袂を分かったチェリビダッケが1992年、32年ぶりにただ一度きりベルリン・フィルの指揮台にあがった時の様子です。
すっかり恰幅のよくなった79歳の老巨匠はベルリン・フィルに対し、異例の6回ものリハーサルを要求したそうです。
話し口調もすっかり変わりましたが、威厳と風格の感じる姿が印象的です。
チェリビダッケ ブルックナー 交響曲第7番 リハーサル (1992)
最後にアバドのリハーサルの様子をご紹介します。アバドが話している途中でも楽団員同士が気軽に打ち合わせをし、楽団員と会話しながらリハーサルを進めるアバドの様子がうかがえます。
言葉はわからなくともそれぞれのリハーサルの様子からオーケストラの緊張感や空気が伝わってくるのではないでしょうか。
ドキュメンタリー「クラウディオ・アバド The silence that follows the music」(1996)より
1989年12月16日、楽団員による投票の後、最初のベルリン・フィルの演奏会にアバドがメイン・プログラムとして取り上げたのはマーラーの交響曲第1番「巨人」でした。
マーラー 交響曲第1番「巨人」より
クラウディオ・アバド指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
マーラーはその後もアバドにとって重要なレパートリーになります。
アバドの下、楽団員の若返りも進み、その多くはカラヤンの創設したカラヤン・アカデミーと呼ばれるオーケストラ・アカデミーの出身者たちでした。
フルートのエマニュエル・パユ、オーボエのアルブレヒト・マイヤー、クラリネットのヴェンツェル・フックスなどの新しいスタープレイヤーが木管楽器の首席として加わり、ベルリン・フィルに新しい響きをもたらします。
1991年からはオーケストラの創立記念日にあたる5月1日にヨーロッパ各地を巡って行われる「ヨーロッパ・コンサート」のプロジェクトが始まり、ベルリン郊外、オリンピアパーク内のヴァルトビューネで行われる野外コンサート「ヴァルトビューネ・コンサート」、大晦日に本拠地フィルハーモニーで行われる「ジルヴェスター・コンサート」と並ぶもう一つの人気コンサート・シリーズとなりました。
※ヨーロッパ・コンサートでアバドが指揮したのは1991、1994、1996、1998,2000、2002年の6回です。
ベートーヴェン 交響曲第7番より
ヨーロッパ・コンサート1996 フロム・サンクト・ペテルブルク
収録:1996年5月1日 マリインスキー劇場
ワーグナー 歌劇『さまよえるオランダ人』序曲より
ヨーロッパ・コンサート1998 フロム・ストックホルム
収録:1998年5月1日 ヴァーサ号博物館、ストックホルム
※会場は17世紀に沈没して20世紀半ばに引き上げられた軍艦ヴァーサ号を展示してあるストックホルムの博物館です。
このコンサート・シリーズは2015年に25回目を迎えたのを記念してDVDボックスとして発売された後、ブルーレイでも再版されていて、その素晴らしい演奏と共にヨーロッパ各地の歴史ある美しいコンサートホールの雰囲気を楽しむことが出来ます。
ベルリン・フィルの公式チャンネルでこのDVDボックスを紹介しています。
こうして指揮者とオーケストラの関係性に大きな変化をもたらし、ベルリン・フィルと新しい時代を築いていったアバドでしたが、月日の経過と共にオーケストラ内部での立場も世間の評価も徐々に変化していくことになります。
オーケストラを指揮者の独裁的な体制から解放したと歓迎されたアバドのやり方は反面、リーダーシップの欠如と取られるようになり、演奏の質の低下が指摘されることもありました。
大きな世代交代の中で音楽の質の変化はやむを得ないこともあったことでしょうが、世間の評価には「もしカラヤンであれば」と言う圧倒的なカリスマを望む声もあったようです。
リハーサルの最中に楽団員が自由な発言をしたり、指揮者が統率できていないような状況をマスコミにリークする楽団員も出たりアバドのストレスも蓄積されていきます。
フルトヴェングラーもカラヤンも、その死の年にベルリン・フィルを去ることになりましたが、アバドは1998年2月、突如として2002年以降は契約を更新しないことを発表します。
奇しくもそれは13日の金曜日の出来事でした。
2000年7月、アバドが癌に侵されていることが公表されます。
手術と療養のため指揮台を離れたアバドでしたが翌2001年にカムバックします。
皮肉なことに退任を発表して大病を乗り越えたアバドとベルリン・フィルの関係は以前より良好になり、充実した演奏会を重ねていくことになります。
2002年5月13日、ウィーン楽友協会大ホールで行われたベルリン・フィルの芸術監督としての最後の演奏会では4000本を超える花が降り注ぐ中、30分以上の拍手喝采が続いたそうです。
こうして惜しまれつつベルリン・フィルの芸術監督を退任したアバドですが、2004年からは客演指揮者としてベルリン・フィルとの関係は続くことになります。
晩年と功績
12年間に渡ってベルリン・フィルの芸術監督として活躍してきたアバドですが、指揮者としての活躍以外に若い音楽家たちの支援も熱心に行ってきました。
1978年、ECユース管弦楽団を設立、その出身者を中心として1981年にはヨーロッパ室内管弦楽団を設立しています。
そこでは音楽監督を置かずに若い奏者を積極的に起用し、現代音楽まで幅広い作品に挑戦しています。
1986年にはグスタフ・マーラー・ユーゲント管弦楽団を設立し、この団体の出身者を中心に1997年にマーラー室内管弦楽団を設立しています。
ベルリン・フィルを退任後の2003年にはスイスのルツェルンで毎年夏に行われるルツェルン音楽祭で演奏する臨時オーケストラ、ルツェルン祝祭管弦楽団の芸術監督に就任します。
ここではオーケストラの改革に取り組み、自身が設立したマーラー室内管弦楽団のメンバーを中心に、ベルリン・フィルの首席奏者やヨーロッパの著名な奏者たちを招き、臨時オーケストラならではの豪華な布陣で名演奏の数々を聴かせることになります。
モーツァルト レクイエムより(2012)
クラウディオ・アバド指揮 ルツェルン祝祭管弦楽団
動画で見てわかるように晩年のアバドは病がそうさせるのか、その痩せこけた頬の姿で最後の命の灯を輝かせるかのような、ある種宗教的な魅力をも感じさせる演奏を聴かせました。
ベルリン・フィルを始め、著名なオーケストラと名演を遺してきたアバドですが、極めて個人的な感想としては晩年のルツェルン祝祭管弦楽団との演奏の数々が最も印象的です。
2013年、80歳を迎えたアバドは8月にルツェルン音楽祭に登場した後、10月にはルツェルン祝祭管弦楽団を率いて来日公演が予定されていましたが健康上の理由からこの公演はキャンセルになります。
翌2014年1月20日、アバドは惜しまれつつこの世を去ります。
クラウディオ・アバドのyoutube動画
カラヤンの後任として良きにつけ悪しきにつけ、何かと比較されるアバドですが、目を閉じて自身の音楽世界に没入するかのようなカラヤンの指揮ぶりに対して、アバドは長めのタクト(指揮棒)を持った手と腕を大きく広げ、左手はフレージングと抑制のために常に準備しているかのような指揮ぶりが印象的です。
開いた口は時に何かを口ずさみ、合唱付きの作品では一緒に歌っているように見えます。
そんなアバドの指揮ぶりをyoutube公式チャンネルからいくつかご紹介したいと思います。
ベートーヴェン 交響曲第9番「合唱付き」 (2000)
ベートーヴェン 交響曲第5番「運命」より(2001)
ドビュッシー 交響詩「海」より (2009)
チャイコフスキー 交響曲第5番より(1994)
クラウディオ・アバド指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
カラヤンの記事でも同じ4曲の動画をご紹介しています。同じベルリン・フィルを指揮する新旧の指揮者の指揮ぶりを比べてみるのも楽しいかもしれませんね。
クラウディオ・アバドの名盤
最初にご紹介するのはヴェルディのレクイエムです。
2000年7月、アバドは癌の手術を受けます。10月に現場復帰し3か月後の2001年1月に収録されたのがこの作品です。
過去にミラノ・スカラ座、ウィーン・フィルとも同作品を録音しているアバドですが、大病の後とは思えない渾身の熱演を聴かせています。
輸入盤でDVDも発売されています。
ヴェルディ:レクィエム
アンジェラ・ゲオルギュー(ソプラノ)
ダニエラ・バルチェッローナ(メゾ・ソプラノ)
ロベルト・アラーニャ(テノール)
ジュリアン・コンスタンティノフ(バス)
スウェーデン放送合唱団
エリック・エリクソン室内合唱団
オルフェオン・ドノスティアーラ(合唱団)
クラウディオ・アバド指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
録音時期:2001年1月
録音場所:ベルリン、フィルハーモニー
ベルリン・フィル以外にもウィーン・フィル、ロンドン響、シカゴ響、ミラノ・スカラ座管など関係の深かったオーケストラと数々の録音を遺しているアバドですが、ここでは個人的なおすすめとしてベルリン・フィル退任後のルツェルン祝祭管弦楽団との映像作品をご紹介したいと思います。
中でも素晴らしいと思うのはマーラーの交響曲第2番「復活」ですが、この盤についてはこちらの記事で詳しく紹介していますのでお読みいただければと思います。
最後にご紹介するは同じくマーラーの交響曲第1番「巨人」です。
アバドがベルリン・フィルの芸術監督のポストが決まった後、最初の演奏会で取り上げた作品でもあります。
カップリングはプロコフィエフのピアノ協奏曲第3番、ソリストに起用された話題のユジャ・ワンの演奏も楽しめる1枚です。
プロコフィエフ ピアノ協奏曲 第3番 ハ長調 Op.26
マーラー 交響曲 第1番 ニ長調 「巨人」
クラウディオ・アバド指揮 ルツェルン祝祭管弦楽団
ピアノ:ユジャ・ワン
収録時期:2009年8月12日
収録場所:ルツェルン
「Amazon Music Unlimited」ならベルリン・フィルはもちろんのこと、ウィーン・フィル、ロンドン響、シカゴ響など数々のオーケストラと共演した数々のアバドの録音を聴き放題で楽しむことが出来ます!
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参考資料:ヘルベルト・ハフナー著「ベルリン・フィル あるオーケストラの自伝」春秋社 2009
レコード芸術編「クラシック不滅の巨匠たち」音楽の友社 2019
「クラウディオ・アバド バイオグラフィー」『UNIVERSAL MUSIC JAPAN』URL:https://www.universal-music.co.jp/claudio-abbado/biography/
「クラウディオ・アバド」『高松宮殿下記念世界文化賞』URL:https://www.praemiumimperiale.org/ja/laureate/laureates/abbado/
「クラウディオ・アバド」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』2020年1月13日 (月) 12:40 URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/クラウディオ・アバド